1999年にブラジルで始まったカップ・オブ・エクセレンス(COE)は、2004年からボリビアでも開催されるようになりました。
高品質コーヒーの国際競技会として、COEボリビア大会は国際市場への道を開き、『ボリビアコーヒー極上の甘み』という評価を確立させました。

しかし、わずか6年後の2009年、COEボリビア大会は突然終了します。
コーヒーの品質には何の問題もありませんでした。

COEボリビア大会の裏の顔

COEボリビア大会は、米国国際開発庁(USAID)の全面的な支援で運営されていました。
年間2,670万ドルという巨額の予算が投じられていたのです。

しかし、この支援には裏の顔がありました。
それは『麻薬撲滅プログラム』の一環だったのです。
アメリカは1980年代から、コカイン原料となるコカ葉の栽培を抑制するため、農家にコーヒーへの転作を促していました。
COEボリビア大会もまた、この戦略の一部として位置づけられていたのです。

モラレス大統領の反発

2006年に就任したエボ・モラレス大統領は、ボリビア初の先住民出身大統領であり、コカ生産者組合の元リーダーでした。
そして彼にとってコカは3000年の歴史を持つアンデス文化の象徴でした。

2006年エボ・モラレス大統領就任とCOEボリビア大会への影響|鹿児島コーヒー addCoffee

モラレスは、アメリカの麻薬撲滅政策を『文化的侵略』と批判しました。
コカ栽培は年4回収穫でき、コーヒーより収益性が高いという経済的現実もありました。
農家にとって、コカからコーヒーへの転作は生活水準の低下を意味していたのです。

2008年の政治危機が転換点に

2008年9月、ボリビア東部で分離独立運動が激化しました。
モラレス大統領は、この混乱の背後にUSAIDがいると主張し、9月10日に米国大使を国外追放。
さらにチャパレ地域で活動していたUSAID職員100名を追放し、事実上USAIDの活動を停止させました。

2008年ボリビアからの米国大使追放|鹿児島コーヒー addCoffee

『USAIDは分離主義勢力を支援し、我が政府の転覆を図っている』というのがモラレスの主張でした。
アメリカ政府は疑惑を否定しましたが、関係修復は不可能となりました。

最後のCOEボリビア大会

2009年1月、国民投票により新憲法が承認されました。
この憲法は先住民の権利を大幅に拡大し、外国の干渉を明確に禁止する内容でした。
新憲法下でUSAIDの活動はさらに制限され、COEの運営継続は完全に不可能となりました。

2009年のCOEボリビア大会まで、予定通り開催されました。
しかし、これが最後になることを関係者全員が理解していました。
皮肉なことに、最高品質のコーヒーを評価する大会が、コーヒーの品質とは無関係な政治的理由で終了しました。

2009年最後のCOEボリビア大会の歴史的瞬間|鹿児島コーヒー addCoffee

完全なる決別

2013年5月1日のメーデー、モラレス大統領は象徴的な決定を下しました。
『USAIDは直ちにボリビアから撤退せよ』。
49年間にわたってボリビアで活動してきたUSAIDは、9月20日に完全撤退しました。

これにより、COEボリビア大会だけでなく、農家への技術支援、品質管理の訓練、インフラ整備など、すべての支援が失われました。

49年間の活動後USAIDボリビア完全撤退|鹿児島コーヒー addCoffee

最悪なタイミングのさび病

USAIDが撤退した2013年、まるでタイミングを計ったかのように、コーヒーさび病がボリビアを襲いました。
技術支援を失った農家は独力で立ち向かうことを余儀なくされ、生産量は初年度だけで50%以上減少。
多くの農家がコーヒー栽培を放棄してコカ栽培に戻りました。

ボリビアの失われた機会

ボリビアからのCOE撤退は、開発援助が持つ本質的な矛盾を浮き彫りにしました。
支援する側の政治的意図と、支援を受ける側の尊厳の衝突です。

2014年、ボリビアは独自の品質競技会『タサ・プレシデンシアル』を立ち上げました。
しかし、失われた5年間の空白は大きく、回復への道のりは険しいものとなっています。

USAIDの支援は確かに農家の技術向上に貢献しました。
しかし、その支援が『麻薬撲滅』という政治的目的と不可分だったとき、左傾化したボリビア政府は意地を選んだのです。
最も被害を受けたのは、小規模コーヒー農家だったということだけは、確実に言えるでしょう。

COEボリビア大会終了で最も被害を受けた小規模農家|鹿児島コーヒー addCoffee

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