ラパスのカフェで400~500円で売られるコーヒー。
その一方で、生産者である祖父母の収入は少なく、祖父はインスタントコーヒーしか飲んでいない。
この矛盾を感じたナシア、故郷のタイピプラヤ村に戻って始めた挑戦。
それが、ボリビアのコーヒー産業に新しい風を吹き込むモンテシエロ農園の物語です。
標高1650メートルの高地で、三代の女性たちが紡ぐ『コーヒーもひとつの生命である』という哲学。
モンテシエロコーヒーの概要
天の山と呼ばれる農園の特徴
ボリビアの事実上の首都ラパスから車で約6時間。
アンデス山脈東斜面に位置するカラナビ(Caranavi)地域のタイピプラヤ(Taipiplaya)村に、フィンカ・モンテシエロ(Finca Monte Cielo)はあります。
この農園は、ウィルマ(Wilma)と娘のナシア・サルバドル・パラシオス(Nassia Salvador Palacios)、ジャルカ(Jharka)という3人の女性によって経営されています。
モンテシエロとは『天の山』を意味し、標高1650メートルという高地に位置するこの農園は、まさにその名にふさわしい環境を持っています。
農園に足を踏み入れると、まず柑橘類の香りが訪問者を迎えます。
入り口には美しい花々が植えられ、マンダリンやオレンジの木々が実をつけています。
農園の中央に建つ木造の小屋からは、周囲の農園やジャングルを一望でき、まさに『絶対的な静寂の場所』として知られています。
三代にわたる農園の歴史
この農園の歴史は、1950年頃にナシアの祖父がタイピプラヤ村を開拓したことに始まります。
その後、母のウィルマはカラナビで議員を務めるなど、地域のリーダーとして活躍。
そして約20年前から本格的なコーヒー生産を開始しました。
現在は、祖先から受け継いだ土地で、植物と土壌管理に重点を置いた持続可能な農業を実践しています。
主要産地と栽培環境
カラナビ地域の地理的特性
タイピプラヤは、ボリビア最大のコーヒー生産地域であるカラナビ県に位置し、2012年の国勢調査では人口1,983人を数える、この地域最大のコミュニティのひとつです。
1960年代の農地改革以降、カラナビはコーヒー生産で知られるようになり、1990年代には民間セクターからの投資と関心により輸出がピークに達しました。
理想的な栽培条件
モンテシエロ農園の栽培環境は、コーヒー生産にとって理想的な条件を備えています。
火山性土壌は豊富な栄養分を含み、標高1650メートルという高地は、昼夜の寒暖差を大きくし、コーヒーチェリーの成熟を緩やかにします。
この環境により、糖度が高まり、複雑な風味成分が形成されるのです。
農園では、長年の伝統的なコーヒー栽培から脱却し、計画的な土地利用を実施しています。
シキレス(現地の樹木)、柑橘類、その他の有用樹やシェードツリーを体系的に植林し、新しいコーヒーの木も導入されています。
この多様な植生は、土壌の健康を保ち、生物多様性を促進し、コーヒーの品質向上にも貢献しています。
風味プロファイル
レッドカトゥアイ種の特徴的な味わい
モンテシエロで栽培されるレッドカトゥアイ種のコーヒーは、非常に特徴的な風味プロファイルを持っています。
カップに注ぐと、まず黄色い果実のような明るい酸味が感じられ、続いてトフィーのような甘み、バニラの柔らかな香り、そしてキャラメルのような深い甘さが層をなして現れます。
高地栽培がもたらす風味の秘密
この複雑で豊かな風味は、高地栽培がもたらす恵みです。
標高が100メートル上がるごとに気温は約0.6度下がり、この温度差がコーヒーの成長速度を緩やかにします。
結果として、豆の密度が高まり、より多くの糖分と有機酸が蓄積されます。
モンテシエロのコーヒーが持つ、ピーチのような果実味とチョコレートのような深みは、まさにこの環境が生み出す賜物です。
精製方法も風味に大きな影響を与えています。
収穫されたチェリーは、温度と時間を綿密に管理しながら処理されます。
ナシアは大学で学んだ化学工学の知識を活かし、発酵過程でのpH値や糖度を測定・コントロールすることで、品質の安定化と風味の最適化を図っています。
ドイツのロースター、カラヤコーヒー(Caraya Coffee)は、このコーヒーを『穏やかなオムニロースト』と評し、『黄色い核果、トフィー、バニラ、キャラメルのノート。
甘くチョコレートのような』と表現しています。
中煎りから深煎りまで幅広い焙煎度で楽しめる汎用性の高さも、このコーヒーの魅力のひとつです。
歴史と文化
ボリビアコーヒー産業の変遷
モンテシエロ農園の歴史は、ボリビアのコーヒー産業の発展と密接に関わっています。
1950年代、ナシアの祖父は未開の山を開拓し、タイピプラヤ村の基礎を築きました。
当時のボリビアは、大土地所有者による農業が主流でしたが、農地改革により多くの先住民家族に土地が分配され、小規模農家によるコーヒー生産が始まりました。
USAIDプロジェクトとコカ問題
パラシオス家がコーヒー生産を本格的に開始したのは約20年前。
それまでは、他の作物と同様に、コーヒーも小規模な自給的農業の一部でした。
しかし、2000年代初頭にUSAID(米国国際開発庁)がボリビアでスペシャルティコーヒープロジェクトを開始したことで、状況は大きく変わりました。
このプロジェクトは、コカ栽培からコーヒー生産への転換を促進することを目的としていました。
コカの葉は、ボリビアでは伝統的にお茶として飲まれたり、高山病対策として噛まれたりする文化的に重要な作物ですが、同時にコカインの原料でもあります。
コカは栽培が容易で収益性も高いため、多くの農家がコーヒーからコカへ転作していました。
USAIDは技術指導を提供し、新しい精製設備を建設し、ボリビアのコーヒーの生産性と品質向上に取り組みました。
2004年にはボリビア初のカップ・オブ・エクセレンス(COE)が開催され、国際的な注目を集めました。
しかし、2008年の政治的な左傾化により米国との関係が悪化し、USAIDは追放され、COEも2009年を最後に中止されました。
現在は、2015年から始まった大統領杯(Torneo Taza de Café Presidencial)が国際的なコーヒー競技会として開催されています。
しかし、政府主導の大会であるため、国の政治状況に左右されやすく、課題も残されています。
このような歴史的背景の中で、モンテシエロ農園は独自の道を歩んできました。
政治的な変動や国際的な支援の有無に関わらず、品質向上と持続可能な農業の実践を続けてきたのです。
化学工学者から農園主への転身
ナシアの原点と気づき
ナシアの人生は、多くのボリビアの若者と同じように始まりました。
小学生の頃から親元を離れ、ラパスの学校に通い、夏休みや冬休みになると実家に帰って農作業を手伝う。
『いつも、キャンプに行くような感覚で里帰りしていました。バナナの皮を敷いて山の斜面を滑ったり、家のそばにある山を遊び場にして猿みたいに遊び回っていましたね』と彼女は振り返ります。
大学では化学工学を専攻し、将来はエンジニアになることを目指していました。
ボリビアは石油や天然ガスなどの天然資源が豊富な国であり、エンジニアという職業は安定した将来を約束するものでした。
しかし、ある時、彼女は自分の中に眠る『使命』を自覚することになります。
『ラパスのコーヒー屋ではコーヒーが一杯400~500円で売られている一方で、私の祖父母はコーヒーをたくさん作っているにもかかわらず収入が少ない。加えて、祖父がインスタントコーヒーしか飲んでいないことに矛盾を感じたんです』
科学的アプローチの実践
この矛盾は、ナシアの人生を大きく変えました。
質の高いコーヒーを作って、農園で働いている人たちにも豊かな生活をしてもらいたい。
そんな思いを胸に、3年前、彼女は故郷のタイピプラヤ村に戻ることを決断しました。
興味深いことに、コーヒーの生産や精製について実践的に学ぶ中で、大学で得た化学工学の知識がそのまま活用できることに気づきました。
『大学では、温度やpH、糖度を測定し、それをコントロールすればよりよいものができると学んだのですが、コーヒーにおいてもそのアプローチは同じです』
具体的には、温度によってコーヒーチェリーを干す時間を調整したり、雨の水分量によってコーヒーの木にやる水の量を調整したりすることで、品質の安定化を図っています。
発酵過程では、pHメーターを使用して酸性度を監視し、糖度計で果実の成熟度を確認。
これらのデータを記録・分析することで、最適な処理条件を見出しています。
この科学的アプローチは、ボリビアの伝統的なコーヒー生産に革新をもたらしました。
多くの生産者が経験と勘に頼っていた部分を、データに基づいて管理することで、品質の向上と安定化を実現したのです。
地域開発リーダーとしての活動
コミュニティ開発への取り組み
ナシアの活動は、コーヒー生産にとどまりません。
彼女は仕事のかたわら、祖父が開拓した村で『開発プロジェクト』のリーダー的な役割を担っています。
道路を整備したり、学校をつくったりと、日本では行政が行うような役割を、給料なしで引き受けているのです。
『今、家族やこの地域にいる大好きな人たちと一緒に大好きなことをしているので、夢の中にいるような感覚があります』と語るナシアですが、その活動は決して夢物語ではありません。
ロッジプロジェクトと若者雇用
最近では、農園の敷地内に3階建てのロッジを建設しました。
このプロジェクトには深い意図がありました。
『このロッジは、地元の若い人たちに手伝ってもらいながらみんなで作りました。そうすることでいいコミュニティを作れるし、コーヒーの仕事に興味を持った若い人たちが、私たちのチームに加わってもらえればという期待もありましたね』
ボリビアでは、コーヒー生産だけで生計を立てるのが難しいこともあり、地方の若者は都市に出稼ぎに行くケースが多いのが現状です。
この人口流出は、農村コミュニティの持続可能性を脅かす深刻な問題となっています。
この課題に対し、モンテシエロ農園では革新的な解決策を実践しています。
コーヒー以外にもオレンジなどの柑橘類を栽培することで、年間を通じて若者を雇用できる体制を構築。
コーヒーの収穫期は限られていますが、柑橘類は異なる時期に収穫できるため、通年での安定した雇用を提供できるのです。
さらに、地域の若者たちに対する教育活動も積極的に行っています。
コーヒーの栽培技術だけでなく、品質管理、マーケティングなど、幅広い知識とスキルを共有しています。
女性生産者としての挑戦
三人の女性が経営する農園
モンテシエロ農園は、3人の女性によって経営されているという点でも特別な存在です。
母のウィルマは、村の中心部で小さなホテルも経営しており、スペシャルティコーヒーだけではまだ生計を立てられない現実を物語っています。
それでも、ナシアは諦めません。
彼女は常に学びの機会を逃さず、コーヒーに関する教育を受け続けています。
妹のジャルカは、SCA(スペシャルティコーヒー協会)認定バリスタの資格を持ち、ドイツでのボランティア活動中にベルリンの様々なカフェで働いた経験もあります。
現在は著名なコーヒーロースターで働いているといいます。
『家族やこの地域にいる大好きな人たちと一緒に大好きなことをしているので、夢の中にいるような感覚があります。私の目標は、ここの人たちとのチームワークを大切にしながら、コーヒーの質を高めて、この地域のスペシャルティコーヒーをブランド化することです』
コカ栽培の誘惑と持続可能な選択
地域が直面する現実
モンテシエロ農園があるカラナビ地域では、コカは4倍の収益性があり、コーヒーよりもはるかに栽培が容易という現実があります。
実際、多くの農家が経済的理由からコカ栽培を選択し、コーヒーを放棄し農園を見捨てたケースも少なくありません。
同じボリビアのトリニダードコミュニティでは、85%が女性の生産者で構成され、完全にコカからコーヒー生産に転換した事例もあります。
しかし、モンテシエロは異なるアプローチを取りました。
最初からコカに手を出さず、約20年前から高品質コーヒー生産に特化する道を選んだのです。
ナシアが化学工学の知識を活かし、地域の若者に雇用を提供し、コミュニティ全体を巻き込む活動は、『コカに頼らなくても成功できる』という重要なメッセージを発信しています。
コカ栽培という誘惑が常に存在する地域で、あえて困難だが持続可能な道を選択し、それを実現させている。
モンテシエロは、コカ問題に対する予防的な解決策を体現する農園なのです。
持続可能な未来への展望
コーヒーもひとつの生命
『一人ひとりに役割があり、全員の力が合わさってはじめて、私たちは前に進んでいけます。
この農園では、おいしいコーヒー、いいコーヒーをつくるために、みんなが一つひとつの仕事に自分の時間や生命を捧げているので、そういった努力がコーヒーを飲んでくれる人たちにも伝わるように頑張っていきたいです』
ナシアが目指すのは、家族経営でありながら世界有数のロースターを顧客とするアグリカフェ(Agricafe)のペドロ(Pedro)氏のような存在になることです。
しかし、彼女のビジョンはそれだけにとどまりません。
地域全体の発展を目指して
『コーヒーもひとつの生命である』という彼女の哲学は、単にコーヒーを商品として見るのではなく、それを育む土地、人々、そして未来の世代まで含めた包括的な視点を示しています。
ボリビアのコーヒー農園の約90%は実質的に有機栽培とされていますが、認証取得には費用がかかるため、多くの農家は認証を持っていません。
モンテシエロ農園でも、この課題に直面しながら、品質向上と持続可能な農業の実践を続けています。
近隣の農家との協力関係も重要です。
ナシアは、自分の農園だけでなく、地域全体の発展を視野に入れています。
海外のロースターと出会う機会があれば、近隣農家のコーヒーも紹介し、彼らにも適正な価格で販売できる可能性があることを伝えています。
ナシアの祖父、母、そして彼女自身に共通するのは、私利私欲や目先の利益に走らず、長い目で地域の未来を考え、行動に移してきたことです。
この姿勢こそが、持続可能な世界を築くために必要なものかもしれません。
モンテシエロが紡ぐ希望の物語
モンテシエロが示す『コーヒーもひとつの生命』という哲学は、単なる農産物を超えた価値観を私たちに提示しています。
化学工学の知識を活かした品質管理、地域コミュニティへの貢献、そして次世代への技術継承。
これらすべてが、一杯のコーヒーに込められています。
ナシアの祖父、母、そして彼女自身に共通するのは、私利私欲や目先の利益に走らず、長い目で地域の未来を考え、行動に移してきたことです。
持続可能な世界を築くために必要なのは、まさにこのような視点なのかもしれません。
モンテシエロのコーヒーを味わうとき、私たちはボリビアの高地で紡がれる希望の物語に触れることができるのです。